なんてことない日常を、思いのままに綴ります
愛の痛み
2006年09月05日 (火) | 編集 |
「癒し」といってもいろいろあるでしょう。

大きく分けて「差し引いていく」ものと
「付け足していく」ものとになる。

「差し引いていく」ものは、分かりやすく言えば休暇。
あれをしないこれをしないと自分を休ませて心身ともに
癒されるわけです。

「付け足していく」ものは快感。
日常に無い、もしくは不足している何かを、五感を使って
心身に取り入れていくことで癒されると言ったところでしょうか。

休暇は取れないが癒されたいという我が儘放題の現代人にとって
やはり大切なのは快感です。
快感を感じるのは肉体と精神です。


まず、肉体的快感を語る上で、五感の中から強引に触覚だけを
取り出して考えます。
触覚から感じ取る快感は、くすぐったいと痛いの間にあると思われます。
指圧やマッサージを受けたことのある方なら分かるでしょう。
くすぐったいと痛いの間の感覚を。
あれが気持ちいい、つまり快感であるわけです。

実は人体に痛覚はあるがくすぐったいという情報を受け取る感覚は
ないそうです。
ではどこで感じ取っているかというと、痛覚だというのです。
つまり、痛覚に与えられた微量の情報を肉体はくすぐったいと感じて
いるのです。
くすぐったいと痛いの間と言いましたが、実はこれは同一線上のもので
肉体的快感を求めるというのは、
痛みへの突入だったわけです。恐いですねぇ、人間の性というヤツは。

さあ、肉体は痛みに向かっていくことで快感を得ていたわけですが
精神の方はどうでしょう。
精神的快感の中心はやはり愛でしょう。
愛するか、愛されるかは別の話で。

とにかくこの愛という感覚で人は精神的快感を得ようとするわけです。
しかしながら、この愛というのも曲者で、ただ気持ちいいだけのもの
ではありません。

愛するが故の痛みや苦しみ、慣用句を使えば胸が痛いとか
胸が苦しいとか言われるあれです。
別の言葉で言えば、切ないとか寂しいなども愛があるが為です。
ここでも肉体同様、快感を求めることが同時に痛みに
向かってしまっていると言えるでしょう。

では、愛の痛みとはどんなものでしょうか。
「アナタが私を愛してない」とか「私がアナタを愛してない」というのが、
痛みに繋がると思っている方もいるのではないでしょうか。
残念ながら、そうではないでしょう。
いや、それでは足りないと言った方がいいでしょうか。
恐らく愛の痛みの本質は、「アナタは私でなく、私はアナタでない」ということ。
つまりどんなにそばにいても、どんなに心を通わせても
アナタと私は別々の器、別々の肉体、別々の精神の中に
存在するということです。
でも、だからこそ愛おしい。だからこそアナタの美しさに、自分の美しさに気付くのです。
それは、アナタの醜さや自分の醜さを覆い隠すほどに魅力的で
その先に痛みが伴うと知りつつも、愛に近付こうと
する要因なのです。

アナタと私はこんなに違うから、抱き締められた時にぴったりくるのです。
それはまるでパズルのように抱き締めて、離さないでいられるのです。
触れあう心が痛むのは、アナタと私とが違うから。
だけど人はそれを愛と呼んで、昔から、
そして世界中でこの快感に吸い寄せられていくのです。
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